人類の災難や苦痛への反省

  人類の災難や苦痛への反省

                                            一切唯心造
 

(甘露門) いっさいゆいしんぞう
『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著?1987.7.禅文化研究所刊)より
 「一切(いっさい)は唯(た)だ心の造るものなり」と読まずに、「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」と読みます。
 盆の季節になると各寺院では、施餓鬼会(せがきえ)――釈尊在世当時、弟子の阿難(あなん)尊者が、「定命尽(じょうみょうつ)き餓鬼道に堕ちるのを免れたくば、餓鬼に十分な食事の施しをせよ」と陀羅尼経(だらにきょう)を唱え供養する修法を釈尊より伝授されたことより始まったといわれる、餓鬼、すなわちむさぼりの心を持つ者への食(じき)の施しをする行事――が修行されます。その折り、大勢の僧が独特の節回しで唱和する経文に、『施餓鬼―甘露門(かんろもん)』というのがあります。その初めに、


若人欲了知(じゃしんにゅーりょうしー) 三世一切仏(さんしーいしんふー)  応観法界性(いんかんはかいしん) 一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)
若(も)し人、三世一切(さんぜいっさい)の仏を了知(りょうち)せんと欲しなば、応(まさ)に法界(ほっかい)の性(しょう)を観ずべし、一切唯心造なり、と。
―もし仏のこころを知ろうとするならば、宇宙一切の諸法の本性を唯だ心造(しんぞう)なりと観ずべし。


 「一切」とは、すべての現象、存在を意味します。「唯」とは、ただそれだけ(· · · ·)のこと、私たちの周囲のすべての存在現象は「心」の働きであり、「心」が造り出したものにすぎないというわけです。すなわち、あらゆる存在は心より現出したものにほかならず、心のほかに何物も存在しないのです。
 白隠禅師はあるとき、一人の若侍から地獄の有無を問われます。白隠は若侍を一瞥して言います。「貴公は見たところ立派な武士だが、いい年をして、まだ、地獄が有るのか無いのかとはあきれたことだ!」とくそみそに罵倒し、あげくの果てには、不忠の臣、不孝の子よ!腰抜け侍!と口を極めて面罵(めんば)します。初めは有名な高僧の言うことだと歯をくいしばって耐えていた若侍も、ついに我慢しきれなくなって、やにわに刀を抜いて白隠に斬り掛かります。白隠和尚は巧みに逃げまわりますが、ついに追い詰められて一刀のもとに斬り伏せられようとする刹那(せつな)、白隠は「そこが地獄だ!」と鋭い叱声(しっせい)を飛ばします。」
 その一語を聞いた若侍は正気を取り戻し、なるほどと合点します。さきほどの鬼面もどこへやら、思わずそこに平伏して、笑みさえ浮かべて言います。「わかりました。地獄の所在がしかとわかりました」と。すると白隠もにっこり笑って、「そこがまた極楽よ!」と事もなげに言い切ります。
 地獄も極楽も所詮、心の中にあったわけです。心が造り出したものにほかならないのです。
 有無?得失?善悪?美醜?愛憎など、一切の相対的差別の見方も、これすべて心の造り出したものです。相対的世界があるからそこに争いがあり、悩みがあり、迷いがあるわけです。
 法界すべて一切唯心造と達観すれば、自然にそれらの対立が泯然(みんぜん)と消えて、真如(しんにょ)そのままの心になることができるのです。まさに仏の心を知ったというべきです。

至道(しどう)は無難なり、唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う。但(た)だ憎愛莫(な)くんば、洞然(どうねん)として明白なり

と『信心銘』にある通りです。一切唯心造、この語を知的に理解することはやさしい、しかし、一切唯心造を達観して、洞然として明白になることは難しいものです